RADWIMPS「狭心症」歌詞の意味解釈・解説!全文とイワンのバカって?

「狭心症」は、2011年2月9日にリリースされたRADWIMPS通算13枚目のシングルであり、2011年3月9日に発売されたRADWIMPSの通算6枚目アルバム「絶体絶命」の6曲目に収録されています。
終始、重々しい雰囲気と直接的な歌詞で、メッセージ性の強い楽曲です。
野田氏曰く「ずっと抱いていた圧倒的な劣等感を生まれて初めて言葉にできた曲」

「狭心症」の歌詞を紹介して、歌詞の意味を解釈・解説していきます。


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ラッドウィンプス「狭心症」の歌詞


野田洋次郎作詞

この眼が二つだけでよかったなぁ
世界の悲しみがすべて見えてしまったら
僕は到底生きていけはしないから
うまいことできた世界だ いやになるほど

それなのに人はなに血迷ったか
わざわざ広いこの世界の至る所に
ご丁寧に眼付けて あーだこーだと
僕は僕の悲しみで 精一杯なの

見ちゃいけないなら 僕がいけないなら
針と糸すぐほら持ってきてよ
塞いでしまうから 縫ってしまうから
最後にまとめて全部見してよ

1が1であるために今日も僕はね
100から 99も奪って生きてるんだと
んなの教えてと頼んだ覚えはないのに
いいから ほら もう黙ってて イワンのバカ

世界から見れば今のあなたは
どれだけ かくかくしかじかと言われましても
下には下がいるって 喜びゃいいの?
僕は僕の悲しみも 憂いちゃいかんとさ

泣いちゃいけないなら 僕がいけないなら
涙腺など とうに切っといてよ

生まれた時にさ へその緒の前にさ
ついでに口 横に裂いといてよ

したら辛い時や 悲しい時も
何事もないように笑えるよ

そうでもしないと とてもじゃないけど
僕は僕をやってられないんだよ

今日もあちらこちらで 命は消える
はずなのにどこを歩けど 落ちてなどいないなぁ
綺麗好きにも程があるよほんとさ
なんて素晴らしい世界だ ってなんでなんだか

そりゃ 色々忙しいとは思うけど
主よ雲の上で何をボケっと突っ立てるのさ
子のオイタ叱るのが務めなんでしょ
勇気を持って 拳を出して
なんとしたって なんとかして
好きなようにやっちゃって

見なきゃいけないなら 僕がいけないなら
目蓋の裏にでも張っといてよ

生まれた時にさ へその緒の前にさ
そうまでして逆らいたいなら

僕が嬉しい時も 気持ちいい時も
瞬くたび突き落としてよ

だってじゃないとさ 忘れてしまうから
僕の眼は二つしかないから

この耳が二つだけでよかったなぁ
世界の叫び声がすべて 聞こえてしまったら
僕は到底息ができないから
僕は僕を 幸せにする機能で

いっぱい いっぱい いっぱい いっぱい
いっぱい いっぱい いっぱい いっぱい

見ちゃいけないなら 聴いちゃいけないなら
僕らの下にも次の命が

宿った時には へその緒の前にさ
そのすべての世界の入り口を

閉じてあげるから 塞いだげるから
僕が君を守ってあげるから

逃がしたげるから その瞳から
涙が零れることはないから



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「狭心症」歌詞の意味解釈・解説



「この眼が二つだけでよかったなぁ」
この始めのフレーズがいかに重い意味を含んでいるか、「狭心症」の歌詞の意味は、すべてこのフレーズに集約されると思います。

今この瞬間も、世界のどこかで誰かが苦しんでいます。
誰かが、悲しんでいます。
誰かが、死んでいます。
「世界のいたるところの眼」であるマスメディアが発達した現在、世界中で起こる災害や、紛争、飢餓、犯罪がリアルタイムで報道されるようになりました。

しかし、それは全世界で起きていることのほんの1%を、さらに口当たりよく薄めたものです。
実際には、目も当てられない様な悲惨な事態が、この瞬間に世界各地で起きているのです。
それなのに、時が経てばどんなに悲惨な出来事も、まるで綺麗好きの誰かが掃除したかの様に、つのまにか「素晴らしい世界」になってしまっています。


その素晴らしい世界に浸って生きる僕らは、目の前の美味しい料理がどれだけの犠牲を払って、目の前に並んでいるか考えもしません。
そして、今も世界のどこかで、首を切り落とされる痛みよりも、たかだか指先をカッターで切った痛みの方が辛いのです。
たった二つの眼で、目先のことしか見えないからこそ、僕らは同時刻に世界中で起こる惨劇から眼を逸らし、笑って生きることができるのです。


しかし、この瞬間に、世界で起きている惨劇は消えてなくなることはありません。
もし70億個の眼と耳があって、地球上の全ての人の悲しみが見えてしまったら、聞こえてしまったら、感じてしまったら、僕たちは到底、笑って生活することなどできません。
それでも世界で今起きていることを無視することが、モラルに反するというのなら、いっそのこと眼など縫って塞いでしまってほしい。


トルストイの童話の「イワンのバカ」のように、全ての我欲を捨て、生きることが正しいというのなら、何も見ず、何も知らず、ただ笑って暮らしすことを義務として徹底してほしい。
それができなければ人間と世界を創った神様が、その責任をもって、この悲惨な世界の方をどうにかしてほしい。
それほどまでに、世界中で起こる救いようのない惨劇に、僕は苦み、悲しみます。


僕にとって、世界は全ての悲しみを共有する事を求めます。
しかし、時々そのことを忘れてしまうくらい、僕は僕が生きることで精一杯です。
こんな辛い矛盾を抱える僕は、狭い心の持ち主なのでしょうか?


心臓が痛む狭心症のように、そんな矛盾からくる心の痛みを次世代の子供たちが感じないようにするためには、検閲による情報統制をしくことです。
全ての悲惨な情報を遮って閉じることで、子供たちが涙を零すことはなくなるのではないでしょうか。

それが正しい選択かどうかは分かりません。
少なくとも僕は、最後に全てを受け止める覚悟があります。
だからこそ眼を潰してしまうのではなく、目蓋を針で「縫ってしまう」という言葉が選ばれたのです。


「狭心症」という曲は、世界中で起こる悲惨さを重く受け止めつつも、それから眼を逸らして生きる自分という矛盾を表現しています。
それでも、一人の人間であり、当事者の一人として、訴えなければいけないメッセージを込めた曲。
「勇気をもって歌わなきゃいけない曲」と、野田洋次郎氏が述べているのは、そういう意味だと思います。

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